Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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3.始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>の経験へ

これ以降、始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>という問題圏において、「患者に対する介入実践」をテーマ化する道筋を探究することにしたい。    
まず、われわれは、導入として以下の諸テーゼを提示する。すなわち、
[1].端的にそれ自体存在すると同時に、世界あるいは状況のただなかで私の意識が出会う他者としての「患者」という<両義的な存在>に対する介入実践とは、身体図式という経験のシステムのさらなる<生成母胎>すなわち始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>の経験であり、それは「この私の身体」と「患者(という他者)の身体」との相互交錯的反復の経験として現象する。
[2].始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>と「この私の意識」は、[1]の相互交錯的反復の経験において、ある相互的かつ同時的な関係性のうちにある。
[3].始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>と「この私の意識」は、いかなる線型的因果性のうちにも位置しない。すなわち、超越論的意識による可能的経験の構成という古典的図式を単に逆転して、「この私の意識」が始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>の因果的効果であるとすることはできない。始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>は、「この私の意識」の因果的成立条件ではない。
[4].始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>は――例えば「並列分散処理モデル」によってそのシステムまたは機能的メカニズムが十分に(または完全に)分析可能な――何らかの「主観的構造」とは異なったレベルに位置づけられる。その機能的メカニズムが十分に(または完全に)分析され得る任意の「主観的構造」は、可能的経験の条件としての<経験のシステム>であるといえるが、この「主観的構造」がそれ自体として「クオリアの質感そのもの」という固有な経験あるいは現象の構成的条件でもあるのかというカント的=超越論的問いは、どこまでも決定不可能なものにとどまる。
 始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>の経験とは、そこにおいて「身体の空間的・時間的統一性、相互感覚的統一性」が生成する固有な――「こ
の私の身体」と「他者の身体」との相互交錯的反復の――経験である。この経験のプロセスに関して、次の記述が参照できる。「心の起源を明らかにするためには、最終的には、「今」(Now)が特別な意味を持つような時間の構造をつくり出す必要がある。空間の中で、「私」という視点が占める特別性と、時間の流れの中で「今」という時点が占める特別性の間には、何らかの内的な関連性があるように思われる。」
(茂木健一郎1998,1999.http://www.qualia-manifesto.com/manifesto.j.html)
上記引用における「空間の中で、「私」という視点が占める特別性」」を、「空間の中で、「ここ」という<視点>が特別な意味を持つ空間の構造」と読み替えるなら、以下のテーゼを提示できる。
[5].「身体の空間的・時間的統一性、相互感覚的統一性」の生成プロセスとは、<今>が特別な意味を持つような時間の構造と<ここ>が特別な意味を持つ空間の構造との、ある始原的=潜在的レベルでの相互的かつ同時的な関係性における総合形式の生成プロセスである。この意味において、われわれは、この時空構造の総合形式の生成プロセスを、<自己の身体>の経験と呼ぶことができる。
われわれは、この総合形式の生成プロセスが、「この私の身体」と「他者の身体」との相互交錯的反復の経験として現象することの意味を探究しなければならない。今後探究を進めるに際して、まずメルロ=ポンティによる以下の記述が参照できる。
「私の身体に適用された<ここ>という言葉は、他のさまざまな位置との関係で、あるいは外面的座標との関係で決定された一つの位置などではなくて、第一次的な座標の布置、或る対象への活動的な身体の投錨、自己の任務に直面した身体の状況なのである。(略)つまりは<身体図式>とは、私の身体が世界内存在であることを表現するための一つの仕方だというわけである。さしあたってわれわれの関心の唯一の対象である空間性に関していえば、自己の身体とは、図と地という構造にいつも暗々裡に想定されている第三の項であって、一切の図は、外面的空間と身体空間との二重の地平の上に姿を現すわけである。したがって、図や点だけしか考慮に入れない身体空間の一切の分析は、抽象的だとして糾弾されるべきであって、それというのも、図や点は地平なしには考えられもしなければ存在することもできないからである。(略)身体空間を主題化したりその意味を展開したりしようとすれば、たちまちそこには可知的な空間しか何も見いだせなくなってしまうけれども、しかし同時に、この可知的な空間といえども方向づけられた空間から切り離せるものではなく、前者はまさに後者の顕在化でしかないのであって、この根から切り離されてしまえば、前者は絶対的にいかなる意味ももちえなくなり、その結果、等質的空間が方向づけられた空間の意味を表現できるのも、ただ前者がその意味をあらかじめ後者から受け取っていたからにほかならないのである。(略)沢山の点とか<ここ>とかは、原理上、ただ一連の諸経験によってのみ構成することのできるものであって、この経験のなかで、そのつどこれらの点とか<ここ>とかのただ一つだけが対象として現れてくるものだが、一方この経験の方もそれ自体、こうした空間関係のただなかでつくられてゆくものである。そして最後に、私の身体は私にとって空間の一断片にすぎぬどころか、逆にもし私が身体をもたなければ、私にとって空間など存在せぬことになるであろう。」(メルロ=ポンティ 1945=1967.pp.117-119. 訳 第1巻 pp.175-179.)
つまり、始原的座標としての<自己の身体>というものが焦点化されることになる。通常、これをある一定の方法論の延長線上において「解体」して、デカルトが解析幾何学というものを作り出して、それをニュートンが絶対空間、絶対時間ということで、均質化してしまったから近代物理学というものが可能になっていると了解される。それはアインシュタイン(ミンコフスキー)による四次元時空というものに変換されたとしても、それは構造的な対称性すなわち数学的相互変換の可能性が維持されるという意味における「変換」であって、ある意味ではメルロ=ポンティ的な時空に近づいているといえるかもしれないが、基本的には、個々の人間の誰が観測するかによって、その違いがたとえば、理論との整合性が問われる天文学的事象の予測の妥当性に関する疑いを生じさせるような「想定外のずれ」として生じてくるということは一切ない。その意味で、相対性理論というのは普遍的に立証され得る。また、われわれ自身の身体が、ニュートン力学的な近代科学の客観的空間自体にダイレクトにアクセスするわけではない。それはあくまでも観測装置(およびそれとセットになった一定の理論体系)を介して産み出された均質空間、すなわち数学的空間に翻訳可能な空間にアクセスしているということである。
ところでわれわれ自身は、私にとっての上下左右高低前後といったもの、これに必ず縛られている。近代科学的な客観的な空間、等質的な空間というものも、その根を探っていくと、こういった自身の身体といったものから取り出される原初的な空間把握に根を持っている。最終的に決着を付けられるものではないが、われわれにとっての世界は、「世界に身を挺した身体」とその身体的な実存というものが、そもそもそこから遡行不可能な方位付けられた空間を内に含んでいる。つまり、一方から見れば、われわれはある意味で自分の身体から外に出られない。ということで、結局のところ他人の見え方、感じ方といったことは、決して知ることができないから、われわれは孤独ではないのかという問題があったわけだが、メルロ=ポンティによれば、むしろそうではなくて、われわれが始原的レベルにおいて自閉していない存在であって、他者や、他の文化に開かれていくあり方をしているということになる。われわれはそれを、始原的習慣あるいは世界内存在の一般的運動としての<自己の身体>としてテーマ化した上で、さらに、時空構造の総合形式の生成プロセスとしての「この私の身体」と「他者の身体」との相互交錯的反復の経験と捉えた。
心的なものと身体的なものをまず両方立てて、それがどう関わるかということをやってしまうと、どのような問題も、とりわけ実践的な問題は解けない。だから別のやり方というのは、まさに文化的・心理学的なものだけでも駄目だし、かといって単なる因果的な物理的なものだけでも考えられないということになる。いうまでもないが、物理的なものに手がかりをもつような身体的領野における問題は絶対に残るし、またわれわれはなぜ赤を赤と意識において捉えられるのか、あるいはこの赤の意識とは何なのかという、クオリア問題も残る。一方で我々は意識から出られないのも事実だが、同時に、その意識から逃れるものもある。端的に言えば、例えば無限というものは、実のところは最先端の科学、哲学でも扱えない。理論物理学でも無限というものが出た時点で、あるいは時空の特異点というものが出た時点で発散してしまい、一定の物理理論として成立不可能になってしまう。だからたとえば、「繰り込み理論」とか朝永振一郎が必死にやっている。結局無限というものは、物理学でも扱えないのは当然で、意識の構成できないもの、あるいは任意の因果性の枠組みにおいて対象化不可能なものとして残る。メルロ=ポンティが<世界>を語るのはまさにその地点である。結局全ては私の意識であるが、他方そこから絶対逃れ出てしまうことがあるということの二つを、どちらかではなくて<両義性>として両方押さえた上で、どのような実践的探究の方途があるのかという問いがある。
だから、そういった問いが残るという事態は一種の<規範>みたいなものになっていて、われわれが実践的な介入をする場合でも、少なくても頭の片隅に残しておこうというのは、そういった規範あるいは探究の指針になるだろう。
ところで、無限を取り扱う仕方として、最後まで残っている考え方として、直観主義というものがある。結局実無限というか無限自体は構成できないから、その次その次その次という精神の活動=構成操作、その構成操作の直観という根源的な制約を受け入れた上でやっていくしかないのではないか(たとえば帰納法の基礎づけなどにおいて)ということである。だから結局そこを極端にいうと、「排中律」という「これかこれじゃないか」というのはどうしてわかるんだという疑義が生じることになる。つまりAかnon Aかのnon Aというのは無限(判断)領域だから、そこを神のように捉えてはいないではないか、そこをなぜ<non A>として確定的にいえるのかという意味で、ブラウワーという数学的直観主義の創始者は、「排中律」を否定してしまっている。要はそういった問題に、現在答えはない。そして、最終的な「答」はあり得ないのではないか。
であるなら、ここで先の記述が再び参照され得る。すなわち、「その人にとっての「クオリア」は、つねに同時に、「その人にとってまったく新しいクオリア、すなわち主観的感覚」であるほかない。すなわち、そうした探究においては、「同一なものの反復可能性」が原理的に成立不可能であるだろう。言い換えれば、そうした探究は、たとえあり得たとしても、つねに先送りされる(不在の)「再現」を目指す終わり無き(不可能な)プロセスであり続ける」。この論点に関連して、入不二基義は次のように述べている。
「クオリア(qualia)とは、「感覚質」や「質感」などと訳されることが多いが、私たちの認識に伴う独特の「質」や「感じ」のことである。(略)私たちのクオリアは、機能的に記述されるものでも、またその記述とまったく無縁なものでもない。言い換えれば、クオリアは、機能的記述によって差異化され指定が完結する「何かあるもの (something)」でも、まったく差異化されえない「単なる無 (nothing)」でもない。むしろクオリアとは、「鈍痛の<質>」と比べた場合に「痛みの<質>」には欠如していて、さらに「鉛のように鈍く重い痛みの<質>」と比べた場合に「鈍痛の<質>」には欠如していて、さらに「いわく言いがたいこの重だるい感触」と比べた場合に「鉛のように鈍く重い痛みの<質>」には欠如していて……というように続く、機能的差異に対してのさらなる差異化である。言い換えれば、クオリアは、完結せず繰り返される欠如として、機能的記述の連鎖の中に織り込まれているものなのである。そして、クオリアは、機能的記述のネットワークの中を、完結しない不在として、走り続けめぐり続ける。(略)主観主義者と機能主義者はともに、「反復され完結しない不在」を捉え損なっていた。主観主義者はその「不在」を直接的体験で充填できると誤解し、機能主義者はその「不在」を単なる無と取り違えた。主観主義者も機能主義者も、クオリア特有の「なさ」が、当のクオリアに構成的に働くということを見落としていたのである。したがって、クオリア観の変更が示しているのは、意識や主観性の問題の核心には、当の意識・主観性自体を構成するように働く「不在」「無」が位置しているということであり、意識・主観性の理論は、そのような「不在」「無」をめぐって組織されねばならないということであろう。」 (入不ニ基義 2009.p.242,254-255,263.強調の斜体文字化は引用者による。)
メルロ=ポンティの<両義性>の思考は、この「「不在」「無」」というレベルの「実体化」と「無化」(端的な無視)といういずれの道をも拒絶するはずである。ここにおいて、先に引用した入不二の思考とメルロ=ポンティの<両義性>の思考は、これら両思考を包括するポジティヴな<全体>の不可能性において遭遇することになる。最後に、両者の記述を引用する。「患者に対する介入実践の倫理学」へと向けたその解釈は、今後に引き継がれる探究過程に委ねることにしたい。
「相対主義は、対称性と概念枠という考え方を除去するプロセスを経て、無際限に先行し続ける一致としての「私たち」と「私たち」の未出現(ないよりももっとないこと/<他なるもの>)へと純化された。「私たち」のどこにも限界線は引かれていないが、「私たち」は、「私たち」の未出現によって偶然性にさらされている。「私たち」という絶対的なあり方からは、偶然性を消し去ることはできない。したがって、「私たち」は、限界を持たないが有限である。相対主義の極北とは、「私たち」と「私たち」の未出現との間の、最高度の断絶がきわだつ地点である。一方、実在論は、ソフトな実在論からハードな実在論へ、さらに極限的な実在論へと強度を上げるプロセスを経て、最も包括的な「私たち3」と、その「私たち3」から最も遠い「実在」へと至った。「私たち3」は、反復する「私たち」に一致し、極限的な「実在」は、「ないよりももっとないこと」に一致する。そのような「実在」は、ネガティヴに想定不可能なものなのではなく、ネガティヴに想定不可能でさえないものである。こうして、相対主義と実在論は、極限において一致する。この一致は、相対主義と実在論のそれぞれに含まれる「論理」を先鋭化して自己適用することによって行き着く「最果ての地」である。[以下は上記引用に対する注]相対主義と実在論に差があるとすれば、それは焦点の違いである。「私たち」という絶対的なあり方の有限性や偶然性に焦点を合わせるか、「私たち」の未出現という<他なるもの>を極限的な実在として焦点化するかの違いである。しかしまた、その二つの視点は、互いに切り離して論じることができないことも明らかであろう。メルロ=ポンティの<両義性>の思考は、この「「不在」「無」」というレベルの「実体化」と「無化」(端的な無視)といういずれの道をも拒絶するはずである。ここにおいて、先に引用した入不二の思考とメルロ=ポンティの<両義性>の思考は、これら両思考を包括するポジティヴな<全体>の不可能性において遭遇することになる。」(入不ニ基義 2009.p.282,305)

「私の身体が世界(それも一個の知覚されたものである)と同じ肉でできているということ、そして、さらに私の身体のこの肉が世界によって分かちもたれており、世界はそれを反映し、世界がそれを蚕食し、それが世界を蚕食している(感じられるものが主観性の極点であると同時に物質性の極点でもある)ということ、それら両者が越境とまたぎ越しの関係にあるということ(中略)私の身体はもろもろの知覚されるもののうちにある一つの知覚されるものであるだけではなく、それはすべてのものの測定者であり、世界のあらゆる次元のNullpunkt[ゼロ点]だということ」 (メルロ=ポンティ1964.p.302. 訳 pp.363-364.原文における強調を斜体文字化した。)

[2].「<世界>と<存在>:両者の関係は見えるものと見えないもの(潜在性)の関係であるが、見えないものとは別の見えるもの(論理的な意味で「可能な」見えるもの)、単に不在であるというだけの事実的なもののことではない。それは原理的なVerborgenheit[隠蔽態]、つまり見えるもののもつ見えないもの、Umwelt[環境世界]のOffenheit[開在性]なのであって、Unendlichkeit[無限性]ではない。――Unendlichkeitは究極のところ即自であり対-象なのである。――私にとって問題となりうるかぎりでの<存在>の無限性とは、作動しつつある、働きつつある有限性:つまりUmweltの開在性なのである。――私は経験的な意味での有限性、さまざまな限界をもつ事実的実存という考え方には反対であり、だからこそ私は形而上学に与するのである。しかし、形而上学は事実上の有限性のうちにあるのではないと同様に無限なもののうちにあるのでもない。」 (メルロ=ポンティ1964.p.305. 訳 p.368. 原文における強調を斜体文字化した。)

【参考文献】
Chalmers,D. 1996. The Conscious Mind. New York. Oxford University Press.
 (林一訳 『意識する心』 白楊社 2001.)
入不ニ基義. 2009. 『相対主義の極北』 筑摩書房
Garfinkel,H. 1967. Studies in Ethnomethodology. Prentice-Hall.
Husserl,E.G.A. 1931=1977. Cartesianische Meditationen. Eine Einleitung in die Phaenomenologie. F.Meiner. (浜渦辰二訳 『デカルト的省察』 岩波書店 2001.)
Merleau-Ponty,M. 1945=1967. Phnomenologie de la perception. Paris. Gallimard.
(竹内芳郎・小木貞孝訳 『知覚の現象学1』 みすず書房. 1967. /竹内芳郎・木田元・宮本忠雄訳 『知覚の現象学2』 みすず書房. 1974.)
Merleau-Ponty,M. 1964. Le visible et l'invisible, suivi de notes de travail. Paris, Gallimard, (滝浦静雄・木田元訳 『見えるものと見えないもの』 みすず書房. 1989.)
宮本省三. 2008a. 『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』 講談社.
宮本省三. 2008b. 「メルロ=ポンティとリハビリテーション」 『現代思想 12月臨時増刊 総特集 メルロ=ポンティ ~身体論の深化と拡張~』vol.36 (16). 青土社.
宮本省三. 2009. 「ヴィゴツキーとリハビリテーション 運動発達と認知運動療法の道具」 『現代思想 特集 ガリレオ』vol.37-12. 青土社.
西村ユミ. 2001. 『語りかける身体 ~看護ケアの現象学』 ゆるみ出版.
Psathas,G. 1988. Ethnomethodology as a new development in the social sciences, Lecture presented to the Faculty of Waseda University. (北澤裕・西阪仰編訳 『日常性の解剖学』(新版) マルジュ社. 1995.所蔵)
Ramachandran,V.S and Blakeslee,S. 1998. Phantoms in the Brain. Oliver Sacks.(山下篤子訳 『脳のなかの幽霊』 角川書店. 1999年.)
Ramachandran,V.S. 2003. The emerging mind. Andrew Nurnberg Associates Ltd. London.(山下篤子訳 『脳のなかの幽霊、ふたたび』 角川書店. 2005.)


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